「わたくし 山女ですの」

雛の町の宵に出会った和装の麗人から思いがけない

言葉が返ってきた。

「山女・・・ですか」

山の神のことかといぶかっていると

「山登りの山女ですわよ」

その着物姿からはとても想像できなかっただけにどうやら

こちらの反応が可笑しかったらしい。

笑いながら

「大雪山でしょ、北岳のお花畑も美しかった、八ヶ岳に

 北アルプスも、実は百名山を密かに狙っているのです」

先程までの着物の話から、突然山の話題に変わった瞬間、

その美しい着物姿の麗人の口から次々と飛び出す山の名に

引き込まれてしまっておりましてね。

私が深田久弥氏の「日本百名山」に出会ったのはもう30年も昔のこと、

三十を少し超えた数までは登ったが、何時の間にか興味が他に移り

長続きしない性格の通り、百名山は夢と消えてしまった。

「わたくし、体力が残っているうちに標高の高い山からと想って

 いるんです」

「それがいいですよ、体力は何時の間にか消えてしまうものですから」

「雪が消えたら足慣らしに八ヶ岳に行こうと想ってるんです」

その麗人は本気の山女でした。

山を語るその人の瞳は輝き、口元に笑みが絶える事はなかった。

急に山を見たくなったのは、あの着物の麗人の口から飛び出した山の名が

招いたに違いありませんよ。

春の陽気につられてやって来た甲府盆地のぐるりはあの懐かしい

甲武信ケ岳から国師ケ岳、金峰山への奥秩父の山並み、

正面には北岳を名主に白根三山の三千米の稜線、

そのまま目を右に移していくと

薬師、観音、地蔵の鳳凰三山そしてその地蔵岳の山頂にはオベリスク、

あの青木鉱泉での夜が記憶の中に浮かび上がる。

甲斐駒が岳はやがて雲の中にその古武士のような姿を消すと

急に寒さが押し寄せてきた。

此処はまだ冬の真っ只中、

韮崎から塩川に沿って上流へ向かう、

目の前にあの深田久弥氏終焉の地になった茅ケ岳が夕日を浴びている。

振り向くと頭を雲に囲まれた富士が顔を出している。

もうどの山もドクターストップが掛かり登ることは叶わなくなったが

飽きるほど眺めることはできる、

山は登ってよし、眺めてよし、語ってよし

次にあの和装の麗人にお目にかかったらこの日の山の思い出を語ろう。

塩川を離れて少しずつ高度を上げていく、外気温は零度を割っている、

サイドウインドウを下げると、真冬の風が吹き付けてくる。

目の前に 何度も通った 八ヶ岳の華麗な姿、

エンジンを切り、風の声を聞きながら飽きず眺める、

間もなく陽は西の山の端に沈むと、八ヶ岳が紅に染まり始める。

もう眺めるだけの山を少しでも長く楽しもう、

大きく吸い込んだ山の冷気が身体を清めてくれた気がした旅の途中・・・

(山梨 韮崎の山の辺にて)