昨日お邪魔した店でお茶を立てていただいた、

床の間の掛け軸に

「水上青々翠」(すいじょうせいせいたるみどり)

とあった。

お抹茶の緑とともによほど心に残っていたのでしょう、

いつもの散歩で不忍池を巡ると、蓮池の枯れていた葉が緑を

取り戻していた。

まさに、水上青々翠 でありますな。

池の辺には何気ない人の姿、

祭りのように喜びを爆発させるわけでもなく、

ただじっと池面を見つめる人あり、

無心に将棋盤に興じる人、それを囃す人、

『直心』のおもむくままとは、すべて何気ない姿で現れるものかな。

いつもならすれ違っても何も感じない人の姿がやけに気にかかるのです。

何かのためにとか、こうすれば見返りがあるなんていうことを考えなくなれたら

また人生が楽しくなるのではないかと感じさせてくれる人の姿を

心のどこかで求めているのだろうか。

世の中には『常識』という、判っているようで判らない

基準みたいなものがあるでしょ、

基準があるようでいて、その実人それぞれに勝手に解釈して、

「あの人は常識知らずだ」

などとレッテルを貼ったりして、自分は正しいと想いたがる人ほど

厄介なものはありませんでしょ、

良くも悪くもこの常識にしばられると、世の中がツマラナク見えてきや

しませんかね。

楽に生きるってどうしたらできますかね、

ある人は、

「お金儲けと人気取りをやめたところから楽しい人生が待っているよ」

ある人は、

「人がやらないこと、誰もが見向きもしないことをやってみるといい、

みんなが先に行ってしまったと気にすることはない、時代が巡ると

一周遅れで居たはずがいつのまにか先頭に立っているかもしれないよ」

みんながやるから正しいなんていう保障は何処にもないのですよ、

みんなの中で競い合うと、何時の間にか心が磨り減ってしまうだけ、

そう「直心」に従うことだね、

「直心」って何だ!

そう目を吊り上げないでくださいよ、

自分のありのままの心の在り様のことですよ、

でも、本当はこの「直心」に従うのが一番難しいのですがね、

あの、だからといって犯罪はダメですよ、

逃亡者になったら、人の目ばかり気にして生きなけりゃ

ならないじゃないですか、

本当はフーテンの寅さんみたいに生きられたらいいのだけれど、

そうもいかないでしょ、

だから、一日中、寅さんやってると周りが迷惑するから、

一日の中のほんの何時間かを寅さんになってみるという折衷案は

いかがですか、案外気持ちが楽になれるかもしれませんよ。

こうして今日ものんびり東京散歩でございます。

浮き草の緑は何処に漂っても美しいですな、

それに気がついただけでも、いい一日になりましたよ。

 「水上青々翠」かな。