「ふーっ!寒いね」

温かくなったかと思っていると、急に冷たい風が体温を

奪っていく、

今日が温かいのか、冷たいのかは誰に教えられなくても

判るものですが、それじゃ何でも体験すれば自ずから判って

くるものでしょうか。

当たり前に思っていることって、案外気付かないことばかりじゃ

ないですかね、

書物を読んだり、偉いと尊敬されている方に教授を受けたからと

いって、全てが理解できるなんてことは、アタシみたいな凡人には

不可能なことでしてね。

そりゃ、知識や記憶などは無いよりはあった方が

いくらかは益しかもしれませんが、

だからといって人生にはそれが正解ということは無いのでは・・・

いろいろな体験を通して、もし、悟ったと思っても、

それは自らが努力して見つけ出したことではなく、

体験によって悟らされただけなのかもしれませんよね、

なぜこんなことを思っているのか、それは自らを旅の中に置いているから

かもしれません、

モノを理解しようとするとき、一番簡単な方法は、

何か基準を設けておいてその基準と比較して優劣をつけようというやり方、

その基準は、人が作った場合もあるし、自分が体験から会得したこともある、

しかし、目の前に現れたモノや事案や感慨なんてものは、

比較して理解するものではなく、その目の前に立ち現れる事案を

比較しないで全て受け入れてみるという方法が

最も大切なような気がするのです。

その時にやってはいけないことは、自分の中にある記憶の中の知識を

総動員するということ、そんなものは、目の前の事案に何を感じるかには

何の役目もないということ、

たとえば、この寒空の下でも、可憐な福寿草は咲く、

もし仮に、気温が何度だから、花が咲き出したのだと理解したとしても

その福寿草事態には、温度が何度であるかは何の影響も無いこと、

「ああ、今年も綺麗な花だよ」

それだけで、それ以上でもそれ以下でもないのですな。

『冷暖自知』とは、中々奥が深いですね、

いかに心を真っ白にして、何を感じるか、

余計なことをすべて頭から追い出して

モノを見、触り、匂いを嗅ぐ・・・。

それが当たり前に出来るようになったら、どんなにか旅が

楽しくなるでしょうか。

久し振りの街、もう何十度も訪ねて、路地の隅々まで

判ってしまっているつもりでおりました、

今までの、この街の記憶を全て頭から追い出して

歩いてみました。

見るもの、触るものが何と新鮮でしょうか、

こんな方法があったじゃないですか、

路地ですれ違った人、

銭湯の煙突から薄い煙

蔵の屋根の上の暮れなずむ空、

今年の旅はこの方法で行こう、

もしかしたら本物の冷暖に出会えるかもしれないから。