あの寝苦しかった猛暑の夜も明けてみると何時の間にか

秋の真っ只中に置かれておりましてね。

都心から各駅停車に揺られながら降り立ったのは多摩川の

上流、かつては都心からの格好の行楽地として多くの人を

惹きつけた鳩ノ巣渓谷も、車社会の到来と共に単なる通過点

になってしまったのだろう、昔の繁栄を思わせるものは朽ちて

しまった看板だけでありましてね、

まだ気力も体力も旺盛だった青春時代、山登りに取り付かれ

奥多摩の山々を訪れることがたびたびありましてね、

雲取山、川苔山、本仁田山など其の頃は山だけにしか目に入らず

途中の集落や谷間の景色などは全く覚えていないところをみると

若さというのは視界の狭いということなのかもしれません。

50年の歳月は確実に体力を奪っていき、もう今は気力だけでは

あの高い山に登るには躊躇を覚え始めた旅人にとって、

山間(やまあい)の小道は思い出と共に新たな発見を楽しめる

格好の存在なのだと再認識させられるのでありますよ。

駅を背に歩き出せば、ぐるりの山の裾際に

人の営みが あそこにも、そこにもあるのですね、

一番遠くに見える集落を目指して歩き出せば、

風は紛れも無く秋色です。

小一時間ほどかけてかなりの高みまで登ってみると、

その集落から沢山のことが見えてまいります、

ここでは、隣近所が助け合わなければ生活に支障をきたすでしょう、

すべてが自然環境の中で、一人の人間の出来ることなど

たかが知れていることを知っていなければ、

この緑豊かな自然の中での生活は不可能になるにちがいありません。

その集落の一番の高みは墓地になっておりましてね、

その位置がいつかは自分達も行くところだという

意識が働いているのでしょうか、

それとも、この更に奥に出来たダムの為に水没した

集落のあったことが、墓地を一番高みに作った理由なのでしょうか、

考えさせられることばかりですね。

空腹感に襲われても、それを満たす方法は何処にもありません、

通りかかった赤いオートバイの配達人に尋ねると

「駅の傍まで行かないとありませんね」

という間違いのない返事、

もう一度気を取り直し、来た道を戻らずに教えていただいた

駅に向かう道をトボトボと歩く。

もうアカネが群れをなしている。

教えられた店は「本日休業」の看板、

仕方なく駅のベンチで都会行きの電車を待つ。

都会へ戻る若者が呟く

「ええ、20分も待つの」

そういえば都会では電車は2分も待つことはないですものね。

若い二人とたそがれのおじさんを乗せた都会行きの電車は

それでも正確な定時に山の駅を走り出すのでした。

この秋の風も一緒に運んでくれるだろうか・・・

(奥多摩にて)