『人は必ずいつかは死を迎えなければならないのは

 例外なしの真実です。

 しかし、死した後もその人を知る人の中に記憶として

 残っている限り、その人は生き続けているのです。』

昭和7年4月25日九大工学部裏の箱崎松原で

高度30m、約1分の飛行が行われた。

それは九州でグライダーが翔んだ最初の日でした。

その時操縦桿を握っていたのが義父(岳父)でした。

昭和7年9月10日標高450mの十文字原から

別府海岸までを九帝三型機で飛行、

飛行距離7km、飛行時間8分30秒これが当時の日本記録。

昭和10年5月12日大阪で日本帆走飛行連盟が結成され、

九帝五型機で日本で初めて生駒山頂上から、

大阪唐津飛行場まで飛行、

同年9月5日阿蘇外輪山の大観峰西方

(標高940m、阿蘇盆地からの高度差約400m)から離陸、

滞空時間3時間4分
9
月8日阿蘇外輪山の大観峰に連なる外輪山上空で8の字旋回を続け、

滞空時間4時間12分、最大獲得高度550m、飛行範囲は23キロという、

あらゆる点でのこれまでにない日本記録が達成されました。

昭和11年1月九帝七型機は、大阪生駒山で9時間23分という、当

時としては驚異的な滞空記録をつくります。

主要参考・関連文献
青山白雲 滑翔の詩 佐藤 博 先生より

日本のグライダー界に次々と記録を残し続け大冒険家であった

義父と最初の約束は、

「娘さんとの結婚をお願いします」

「君、こんな気の強い娘を嫁にすると後悔するよ」

「いえ、最後まで守りますから」

と、それは男同士の約束をしたのです。

その後の生活の中で、何度も破綻する状況に陥っても、

踏ん張れたのはきっと義父との約束だった気がします。

「おやじさん、これだけは今も守っていますからね」

その冒険家の義父が人生の最後を悟ったのは、

家族の誰もが気づかないことでした。

不治の病を知った義父は、その当時職業を持っていた義母に

心配をかけまいとするかのように、ひとりで八ヶ岳山麓の病院に

入院するのでした。

「こんな遠くへ入院しなくてもいいのにね」

などと話しながら、見舞いを兼ねて八ヶ岳通いが続きました。

義母の休日を利用しての八ヶ岳への旅は、今、考えると

全てが想い出に繋がっていたのですね。

義父は八ヶ岳の山の上に立ち上がる夏雲を見ては

「あの上昇気流があれば日本縦断も可能なんだよ」

と呟いていたことも、今は全て想い出の中です。

ある日、病院からの連絡を受け、飛んでいくとベットの中で

苦しそうな息をしながら

「きみ、母さんのことを頼んだよ」

「大丈夫です、私が守りますから」

と二つ目の約束をしました。

そして、まるで全てのことをし遂げた安らかな顔で

旅たっていきました。

49日の一週間ほど前、九州の菩提寺へ納骨に行く前に、

どうしても寄って生きたい場所がありました。

それは、義母と気の強い娘と私、そして既に遺骨になった

義父を抱えて一緒に歩いた白駒池。

シラビソ、トウヒ、コメツガ、鬱蒼と茂る森の中の道は、

どこを見ても義父と歩いたあの道でした。

やがてどこから湧き出したかあたり一面霧に囲まれると

目の前を、あのぺたぺたとゴム草履で歩く姿が見えたのです。

「アッ! おやじさん」

しかし、一度も振り返らずその霧の中に姿が見えなくなると、

三人は顔を見合わせておりました。

三人にはっきり見えたのです。

「お父さん、きっと今大空に向かって翔んでいったのよ」

あれから、8年後、突然義母が救急車で運ばれて入院、

「そんなに大袈裟に騒がなくても大丈夫よ、

 明日は退院するんだから貴方達も今夜は帰りなさいよ」

それが義母の最後の言葉になるとは思いもしないで、帰宅すると

その夜中に病院から緊急電話、

病室に駆け込んだ時は、まだほのかに温かさが残っていたのにもう

目を開けることはありませんでした。

義父との約束を果たせなかったことで、私は悔やみました。

「きっと父が迎えに来たんだわ、

  母は父が亡くなった歳と同じだったのよ」

久しぶりに訪ねた、白駒池の辺で想い出ばかりが駆け巡ります。

「親父さん、残ったもうひとつの約束は必ず守り通しますからね」

霧が晴れると、大空にグライダーが飛んでいた。

2017.10.21 今宵は二人の金婚式を迎えた日になりました。

義父との約束はまだ続いています。

八ヶ岳 白駒池にて