旅の記憶というのは歳とともに薄れていくものと

思っておりましたが、時としては歳を重ねるにしたがって

酒や葡萄酒が熟成されるようにますます鮮明になって

いくことがあるのですね。

もうかれこれ三十数年前のことになります、

当時は折口信夫に傾倒しており、彼が提唱する『貴種流離譚』に

興味を持って山の中を旅する日を送っておりました。

『貴種流離譚』というのは高貴な生まれの人が遠い国をさすらって

流浪による試練を克服し、生まれに基づく地位を回復するという

この国の説話の元になった話が多かったのです。

そんな説話の中にとても信じられない話がありましてね、

『第四十六代孝謙天皇(女帝)は生来健康にすぐれず、
 神仏に快癒を祈願されていたある時、夢に老翁が現れて
 「甲斐の国巨摩郡早川庄湯島郷に効験 あらたかな霊湯
 がある」との神託があった。天平宝字二年(758年)5月、
 吉野を出発された女帝主従一向は御勅使川に沿ってさか
 のぼり、ドノコヤ峠を越え奈良田にむかわれた。奈良田
 に滞在された女帝は温泉に入浴されること二旬にして病
 は全快されたが、この地をこよなく愛され、八年間ここ
 に御遷居された。女帝、孝謙天皇が病をいやされた、』

勿論、伝説である、が、気になってその奈良田を訪ねたのです。

南アルプスが屏風のように立ちはだかる渓谷早川に沿って

延々と山懐へ進むこと一時間、そこはまるで山の奥のそのまた奥、

いくら霊験あらたかとはいえ、1200年前、吉野から天皇が

やってくるにはあまりに無理のある秘境でした。

勿論、そのお湯の効用は試してみましたが、

ただの温泉好きの健康な旅人にはあまり効果は判りませんでした。

さて、甲府方面に帰る近道はないかと尋ねると、

「ひどい悪路だが行けない事はない」

と丸山林道を教えてくれたのです。

当時は山の中ばかり走っておりましたので、四輪駆動車を

常用しており迷うことなくその林道を走り始めるのでした。

四十年以上前のことです、その林道はあくまでも

林業の為のもの、凄まじい悪路と断崖絶壁を何度も

乗り越えながらのひとり旅、

確か二時間半ほどかかって増尾の平林集落へたどり

着いた時は、陽も暮れかかりへとへとに疲れきって

おりましてね、

「何処か泊まれる宿はありませんかね」

と尋ねると、この先の山の中に鉱泉宿があると教えられ

よろよろと訪ねる途中で夕暮れに紅く染まる富士の姿に

出くわしたのです。

今までの疲れも吹き飛ぶほどの見事なその山容に、

思わず叫んでおりました。

「なんだこれは! 

こんな見事な富士の姿など見たことがないぞ」

その記憶はそのまま深く心の奥に刻まれたのです、

あれから富士の姿を追って随分旅を続けておりますが、

あの時のあの赤富士には未だ出会えていないのです。

あの日、それは11月も終わりの頃だったように記憶して

おりますが、

宿を訪ねると、当時気持よく泊めてくれたのは多分先代の

ご主人だったのでしょう、

そこは湯治場のようで、宿の中はシーンと静まり返って

いるのでした。

食事も済ませ、旅の疲れを抜いておこうと温泉

(確か当時は鉱泉と言っておりました)

にひとり浸かっていると、何処から現れたのか、

三人の婆さまが足音もさせずに入ってくるではないですか。

私はびっくりして、壁の方を向いて息を殺していると

「ここはな、混浴なんじゃよ、こんな婆ではつまらんだろうが

 なんだか息子と一緒みたいだな、フオォ、フオォ、フオォ」

何しろ温いお湯で出るに出られず、夢であってくれと何度も

祈りながら過ごしたのでありました。

四十数年ぶりに訪ねた秘湯「赤石温泉」は三代目の主人に

代わっておりました。

自作だという露天風呂まで作られており、もうあの湯治場の雰囲気は

何処にも残ってはおりませんでしたね。

勿論、あの日一緒にお湯に浸かった三人の婆さまたちは

もうこの世にはきっといないでしょうね、

内湯に入ると、微かに聞こえる人の話し声

「フオォ、フオォ、フオォ!」

山梨 秘湯『赤石温泉』にて