花の雲鐘は上野か浅草か

かの芭蕉先生が江戸の桜を詠んだ頃は

上野と浅草が桜の名所だったんですよ、

当時は大川の辺は庶民が行楽に出かけるには格好の場所で、

徳川将軍様も、そのあたりのことを知ってかこの堤に桜が

植えられ、桜が咲く時期にはおおいに賑わったとか、

墨堤とは今の桜橋からあの黄色いビル(アタシ等は○ン○ビルと

呼んでますがね)傍の枕橋あたりまでをそう呼んだらしく、

桜の成長とともに一大桜名所になるのです。

しかし、最初に植えられたのは100本くらいだったとか、

桜の寿命は人間の寿命と同じくらいだものだから、

枯れては植えるを繰り返しながら人間がこの桜並木を

大切に守っていたんですね。

しかし、江戸の市中は火事のオンパレード、寿命の尽きる前に桜も

焼けてしまうことも多々あったとか。

あの百花園を作った佐原鞠塢や宇田川総兵衛なんていう篤志家も

私財を桜に投じたりして、明治の頃には立派な桜の名所が出来上がった

のですよ。

『江戸名所花暦』には「江戸第一の花の名所」なり

と記されているのですからね。

あの榎本武揚は晩年この桜並木の見える小梅町に居を構え、

桜の咲く頃は馬にまたがり、桜見物を日課にしていたとか、

しかし、そのまま桜並木が現代まですんなり持続してきた

わけではありませんで、

明治43年の大洪水、関東大震災、東京大空襲と度重なる災害に

見舞われ続けてきたのです。

とどめは便利さ優先の高速道路建設でボロボロになった墨堤を

もう一度桜の名所に復活させたのは、やはり桜好きの人間の英知と

努力だったのです。

今年も見事な桜並木が川面に移り、往年の桜名所は健在でございますよ。

今や墨堤の桜は上野とともに庶民の花見の地位を確立しておりますが、

あの東日本大震災を境に、妙な空気が蔓延してきましてね、

「桜を見るなんて不謹慎ダ!」

「桜の下での宴会などもってのほかダ!」

まるで桜が悪者みたいな扱いに、何でそうなるのか日本人の偏った

精神に恐ろしさを感じておりましたよ。

あれから六度目の桜、どうやら桜は悪みたいなへんてこりんな

考え方は姿を潜め始めたようですね。

桜はね、一年に一度皆の気持ちを解きほぐして、笑顔になってもらう

ために咲いてくれてるのですよ。

今年は道化役の音曲師(チンドン屋)まで登場、

千鳥が淵の桜のように静かに鑑賞するっていう山の手の桜見物も

結構ですが、やっぱり下町の桜はお囃子がないと気分が盛り上がりませんですよ。

急に冬に戻ったような陽気も、桜が長持ちすると思えばつい嬉しくなった

口笛でも吹きたくなる墨堤の桜でございます。

(三年前はお花見が当たり前に出来ていたことを
 思い出しながら・・・)