春雨はいたくな降りそ桜花

いまだ見なくに散らまく惜しも

万葉集 巻十 1870 詠み人知らず

降り出した冷たい雨に東京の桜はまだ二分咲きで

止まってしまった、

その桜に背を向けて向かったのは下野国の国分尼寺、

暮れていく薄闇へ向かっていくと、なにやら刻を

遡っていく気になってしまいます。

国分尼寺といってもそれは千三百年前にあったもので、

今は礎石だけが残されているのです、その国分尼寺跡に

三十数年前にあの根尾谷の淡墨桜を実生苗から育てた桜が

平成の世に見事に咲いているのです。

桜が日本人の心をとらえたのはいつの頃でしょうか、

古事記には天孫降臨の神話が残されています。

 天下った邇邇芸命は笠沙の岬で美しい娘に逢った、

 大山津見神の子で名前を木花之佐久夜毘売命といい、

 求婚されるのです。

 大山津見神は大変喜び、姉の石長比売とともに差し出し

 ましたが邇邇芸命は石長比売を帰してしまい美しい

 木花之佐久夜毘売命と結婚されてしまうのです。

 木花之佐久夜毘売命は桜の女神とされその美しさは際立って

いたのです、しかし姉の石長比売を帰してしまったため、

御子は栄えることがあっても長い寿命は得られなくなってしまった

というのです。

人の寿命が長くないことを語る物語を読むたびに、桜の美しさと

儚さを想い描くのです。

その儚い命の代表である桜が千年も、千五百年も

生き続けるとしたら

それは神の世界の生き方に違いないと思えてならないのです。

根尾谷の淡墨桜は千五百年も生き続けているのです、

その実生分けの桜を薄闇の中で見つめていると、

時代が天平の頃に入り込んでしまったような気に

なってしまう。

淡墨桜は青空の下で見るとその本性の半分も

感じられないのです、

夕暮れの薄い闇に中に浮かび上がってきた姿こそ、

あの木花之佐久夜毘売命を目の前にしているように

感じるのです。

誰も居なくなった国分尼寺跡に大きく育った淡墨桜が闇に

溶けていきます、

色を無くしていく桜花を見送る桜旅の途中です。