『桜花咲きにけらしもあしひきの

   山のかひより見ゆる白雲』

      紀 貫之

(桜の花が咲いたそうだよ、山の谷を通して見える

 白雲みたいなあれが きっと桜なんだよ)

『山たかみ見つつわが来こし桜花

   風は心にまかすべらなり』

     紀 貫之

(山が高いな遠くから眺めるだけで帰ってきてしまった
 
風はあの高みの桜を思いのままに散らすのだろう、きっとそうだよ)

今はお花見というと花の下に座って花を見上げながら宴を

催すのが当たり前ですが、

昔は「桜狩り」といって、桜の花を探して歩き廻ることが

花を愛でる意味だったのですね。

最初から咲いている場所がわかってしまうと、その桜の下に

行くともう咲いていることが確認できてあとはただ飲んで

騒ぐだけ、

情報とは実に人のこころをカサカサにするものかな。

アタシの桜旅はいつでも、捜し歩く桜狩りそのものかもしれませんよ。

しかし、昔の桜狩りを再現するのは、そんなに難しいことでは

ありませんでね、

溢れる情報をこちらから断ち切るだけで、昔の桜狩りが実現できるのですよ。

さてと、あの紀 貫之さんが

 「常よりも春辺になれば桜川

   波の花こそ間なく寄すらめ」

と詠った東国の桜川へそろそろ桜狩りに出かけてみようじゃないですか。

今年は何処の桜も早く咲き始めましてね、

まだ山桜は咲いてはいないだろうと予測して

向かったのは自生の山桜が見ることのできる土地なんです、

実はいつも山桜に合わせて桜狩りに出向いていたので、

山桜より早く咲くというあの謡曲「桜川」に謡われる糸桜を

まだこの眼で確かめていないのです。

それでも櫻川磯部稲村神社の境内の山桜はもう咲き始めていますよ、

境内を抜けて糸桜の元へ、

「ああ、咲き誇っている」

あの なほ青柳の糸桜がさやさやと風に舞っている。

糸桜はアズマヒガンの突然変種なのですよ、

遠く平安の昔、箱根の山中で見つけられた桜は

糸桜と名づけられ、京の都へ運ばれ、都人達に

愛され続けたという、

まるで都の桜のような扱いに、鄙なる吾妻の地に嫣然と咲く糸桜こそ

桜川にふさわしいではありませんか。

山桜の咲く山並みの裾を桜川が流れ、

糸桜が天に向かって咲き誇る。

もう何度も訪ねている磯部稲村神社の宮司さんと桜談義、

なんと幸せな時間でしょうか、

謡曲「桜川」が何処からとも無く聞こえてくる、

そっと見上げた空に、樺匂桜が楚々と咲く。

古人(いにしえびと)が桜に心を奪われたのはすべて山桜だったことが

ここに佇んでいるとよくわかりますよ。

桜はただ華やかだけでなく、愁いを含んだ妖しさに、

心を騒がされたのでしょう。