サクラが咲いていなければこの地に立ち止まることは

なかったでしょう。

そこは小さな墓地になっているのです、

 天文23年(1554年)北条氏によって古河城が落ちると

古河公方の家臣柳橋豊前守一族は柳橋城を捨て筑波の

柳ケ谷に帰農したという。

かつてはこの地には中世より神宮寺と慈眼寺があったらしい

のですが、どちらも廃寺になってしまったといいます。(常陸国誌)

そして帰農した柳橋一族は、この地で営々と生き続けたと

伝わってるのです。

あまりに見事なサクラの杜に足を踏み入れると、

小さな観音堂がそのサクラに覆われておりました。

徳川時代には一族末裔の柳橋長左衛門等が残したという

慈眼観音堂はその後、火事等に見舞われたが、再び再興された、

柳橋一族の血縁は五百年後の今の時代にまで生き続けて

いるのですね、

今はこの地が、柳橋と呼ばれている、

そしてこのサクラの下には小さな墓地が今も

残されている。

帰農した柳橋一族の縁の墓地であるという。

その小さな慈眼観音堂に手を合わせる。

サクラは無言の内に人間の営みを見守って

いるのでしょうか・・・

戦を逃れて帰農した柳橋一族の判断は果たして

どうだったのか・・・

五百年後のこの状況を誰も想像出来なかったに違い

なかったでしょうが、

此処には確かに五百年の歴史が凝縮されているのです。

満開の桜はまだほんの数十年の歴史でしょう、

しかし、この縁の土地に桜を植えたのは柳橋一族の末裔なのです、

桜にはたった一本の桜を代々守り続け、寿命が数百年という

桜が残されておりますが、人の命も独りの寿命は短くても

伝え続けることで五百年の時空を持ち続けることが

できるのですね。

まだ若い桜は、この地に植えられたことでその土地に染み込んでいる

長い人間の営みをも表現しているのかもしれませんね。

今は、争い事など無縁の土地で平和が当たり前のように

感じるのは、やはりここに桜があることで感じられるのかも

しれません。

もし、この小さな杜が桜に囲まれていなかったら、

旅人は足を止めることもないでしょう、

桜とは咲いている時だけ意味があるのではなく、花のない長い時間

にこそ意味があるのだと想い知った桜旅の途中のことでありました。