ちらっと見えた桜に引きづり込まれてしまった、

何しろ頭の中は桜のことで渦巻いているのですから

当然といえば当たり前の行動なのかもしれませんがね、

境内に足を踏み入れると、

「あっ、コノハズク!」

そうです、あれは五年ほど前の夏の日の夕暮れでした、

この小さな森の中で出会ったカメラマンとそのコノハズクが

梢にやってくるからとじっと息を凝らして眺めていたあの場所

だったんです。

裏から入ってきたので豪壮な建築物を目の前にして

やっと其処が甲斐の善光寺だと判ったのです。

あの夏の日もそうでしたが、桜が咲いた春の季節でも

人の姿は少ないのですね、

まあ、参拝客が多いからご利益が多くなるなんてことは

ありませんでしょ、

もしかしたら、浅草の観音様のように押すな押すなと

人の波が押し寄せると仏様の御威光が分散してしまう

かもしれないかな、それに比べてこれだけ祈る人が

少ないと、仏様もはっきりこちらの願いを聞き届けて

くださるかもしれない

なんて理屈で考えるのがノーテンキな旅のオヤジの

考えそうなことでして、

「えーっ、どうぞ旅の無事をよろしく願います」

なんて百円でお願いするのでございますよ。

それにしても、境内の桜も閑散としておりましてね、

これでは桜の名所の多い甲斐路では花見の客も少ないのでしょうね、

もしかしたらへそ曲がりな旅人には似合いの桜かもしれませんがね。

仁王門のあたりにわずかに桜あり、

近所の婆様が腰に手を当てのんびりと桜を見上げていた、

「桜咲きましたね」

「えーえー 桜は几帳面ですね、今年も眺めることができましたよ」

そうでした、桜は夫々の人の想いを受止めてくれるものでしたね。

「この先にも桜が咲いていますよ」

「いえいえ、これだけで十分でございます」

この桜が住まいから一番近い桜なのだからと話す婆様の顔に笑顔が

輝いていた、

あっ、口紅!

私がそのことに気づいたことを敏感に察知されたのだろ、

「桜の前に来る時くらいは美しくいたいものでして・・・」

と呟くと ホ ホ ホッと笑った。

「美しいですよ」

桜にも、そしてその婆様にもそう声を掛けておりました。

御本尊が長野の善光寺に戻られてしまってはこの建物だけが

やけに閑散と見えてしまうのは仕方がありません、

それでも何か目ぼしいモノはないかと探し回るというのは、

何だか先ほどの婆様とはかけ離れた浅ましさでございますよ、

お聞きすれば宝物館に、源頼朝と実朝の木像が安置されているとのこと、

それも現存する中で最古の木像だと聞けば、好奇心がむくむく頭を上げ始める

のでありまして、誰もいない宝物館でひとり対峙する旅の途中でございます。

まさに 春の陽はのどけからまし。

甲斐 善光寺にて