(利根川境河岸から江戸川は始まる)

目の前を流れる江戸川、その歴史を探れば江戸川と認知されたのは

まだほんの400年ほどの流れの歴史しかありません。

というのも、それまでは利根川が関東平野をいく筋にも分かれて

流れていたのです。その中のひとつの川が太日川とよばれ、

まだ江戸川という名はなかったようですね。

徳川家康が江戸に幕府を開いた四百年前、そこらじゅう湿地だらけの

関東平野を人の住める土地にするべく、それまで分流して江戸湾に

流れ込んでいた利根川を現在の銚子へ流れを変える一大事業を行った

のです。

江戸が全国の中心地として繁栄すると、日本中から多くの人々が

江戸に集まってきます、当時世界一の人口を要する一大都市として

人口だけではなく一大消費地として、物産も江戸に集中してくるのは

当然の結果ですよ。

東北地方から荷を積んだ船(当時は大量物資を運ぶ手段)は銚子から

房総半島をぐるりと廻って江戸湾にやってくるには、潮の流れの関係で

とても困難を伴っていたんです。

利根川が銚子へ流れを変えると、その川筋は荷を運ぶための航路の役目を

持つことになるわけで、利根川を遡ってきた船がそのまま江戸まで行かれる

もう一つの川の流れが必要になるわけで、

関宿から金杉まで新たに開削され、太日川と繋がると、船はそのまま

野田、松戸、市川、行徳、浦安からさらに小名木川を上って深川高橋

まで荷が運ばれるようになったのです。

江戸に直結する航路として太日川は江戸へ流れる川として江戸川の

名づけられたのです。

その船運としての働きを持たされた江戸川は、江戸から明治、大正まで

その役目を負っていたんです。

アタシの父は、その江戸川と利根川が交わる境河岸の旧家に生まれましてね、

その当時の境は江戸に直結する繁栄を謳歌していた町でもあったのです。

江戸から東京と名を変えた大都へ、それは目の前の河岸から船に乗れば

何の苦も無く東京深川に到着することが出来たのです。

初めて東京の姿を自分の眼で確かめた親父は、ふるさとを抜け出す動機を

抱えてしまったようです。

希望を胸にふるさとを後にした親父は、江戸川がそれまで一大産業航路として

持っていた繁栄の最後の瞬間に立ち会っていたんです。

境から深川に船でやってきた若き親父は、それから70年の人生を東京で

送ることになるのですが、その東京へやってくる手段は、その後終了し、

江戸川はただ水の流れる川に戻ってしまったのです。

親父と一緒に最後にこの川の辺で見つめていた時、

「オレの人生はこの川から始まったんだよな」

とぽつりと言った言葉を、今、じっと思い出しています。

ああ、人生はまさに川の流れのようなもの・・・