「♪花は 花は 花は咲く

 いつか生まれる君に

 花は 花は 花は咲く

 わたしは何を残しただろう」

ラジオから流れる歌を聴きながら記憶に刻まれた

海の町を思い出していた。

まだ南相馬市などという名はなかった、小高町、原ノ町が

懐かしい町の名でした。

桜を求めて福島を訪ね歩いていた、特に阿武隈山塊の山の中に

素晴らしい桜が数多く見つけられることに、毎年、阿武隈山塊へ

紛れ込んでいく旅が何よりの楽しみになっておりました。

いつものように三春の滝桜を眺めたあと、船引から

都路街道という麗しい名に惹かれてその道をたどっていた、

樹齢三百年を越すような桜が、名も知れず潜んでいるのです、

名もない素晴らしい桜に目を細め何度もシャッターを押した。

やがて都路街道は双葉町で海にたどり着くのです。

その当時は、その海べりに建っていた建物が原子力発電所だと

いうことさえ気にも止めていなかった、

というより桜に心を奪われていて何の感慨も持たなかったのです。

陸前浜街道を北上すると、知人のいる原ノ町を訪ねる、

久しぶりの再会に歓迎してくれた、

出された白米の旨さに、尋ねると

「これは地元の米だよ」

私にしては珍しく三杯もお代わりしてしまうほどでした。

それからは、桜を求める旅は、この阿武隈山塊ばかりに

なっていた、夜ノ森公園の桜並木、大熊町の名もなき桜、

浪江町の町外れで出会った桜、相馬中村神社の神々しい桜、

今でも、目をつぶれば鮮明に蘇るのです。

あの大震災が起こる一年半前、

桜だけでなく、あの陸前浜街道に沿って転々と現れる街を訪ねる旅を

したことがあった。

町の名は、南相馬市と変わっていたが、静かでのんびりとした町並みは

何も変わっていなかった。

大型電気店のオープンに何気なく訪ねると、東京ではとても買えない値段で

欲しかったデジタル・カメラが目玉商品として飾られていた、

「この値段でいいの」

「はい、オープン記念ですから」

とにこやかな笑顔で応対してくれた女店員さんからそのカメラを買い求め

翌日から、そのカメラで相馬の町を写していた。

あの日から二年目の3月11日、じっと見つめていたTVから、

あの南相馬で原町中央産婦人科医院の理事長である高橋亨平先生の

特別番組が流されていた。

高橋先生は原ノ町ですでに1万人以上の赤ちゃんを取り上げたという。

そしてあの大震災、さらに原子力発電所の爆発、病院は原子力発電所から

30km以内の場所にあった、しかし、先生はその病院を離れようとは

しなかったのです。

自分を必要とする患者さんがいるのに、離れるわけにはいかない、

それは、先生の生き方そのものだったのでしょう。

その先生がいることで、若い母親たちはこの町で子供を生む決心をしたという。

二年間で二十数人の赤ちゃんが生まれた、

しかし、新たな命の誕生と引き換えるように、先生の身体は病魔に取り付かれて

いたのです。余命半年だと理解したという。

自分の身体の治療と、新たな命の誕生とを選ばなければならない現実の前で、

先生は、迷うことなく新たな命の誕生を第一に決めた。

新たな命をこの世に生み出した若い母親に

「この町で生んでくれてありがとう、赤ん坊は未来なんだよ」

と声を掛けたという。

高橋先生は、自分の後を引き受けてくれる医師を求めて

各医療機関に手紙を書いた。

広く学ぼうとする意思と実践できる人を求めて。

次の年の一月、先生はついに力尽きて亡くなった、

この町で、先生の遺志を受け継ごうという医師が決まったという。

たったひとりでも、先生の生き方に感動できた人がおられた、

信じることの尊さに涙が止まらなかった。

たった二年とはいえ、その間に生まれた新たな命の赤ん坊は

すでに大震災の記憶を持っていない、その子たちがやがてこの町を

新たな命の育つ町に作り直していくに違いない。

「♪花は 花は 花は咲く

 いつか生まれる君に

 花は 花は 花は咲く

 わたしは何を残しただろう」

きっと先生はニコニコしながらこう歌っているかもしれない・・・

(2019年3月 記す)