「春が其処まできましたよ」

なんて声に出したのがいけなかったのでしょうか、

お天気の神様は、暦をまた冬に戻してしまわれたのです。

不動峠から西の空が彩りを消していくまで眺めていたら

身体の芯まで凍り付いてしまいました。

自然の移ろいをこころに刻むというのは案外孤独な作業なんですね、

暮れなずむ紅色を追いかけるように

山を降りると、

そこは山裾の町、道の一番奥に

今日という陽が鎮まり

東の空に宵闇が広がり始めていた。

蔵の白壁も宵色に溶け込んでいく、

冬のひとり旅、山に登ると何時間も人と話すことがない、

人恋しい灯ともし頃、店の奥の赤い毛氈が妙に暖かい、

夕餉の買い物帰りの車を運転する若い母親が、

わざわざ車を止めて手で合図をしてくれた。

お礼の会釈をして路を横断すると、

いつものCafeの戸を開けた。

すっかり顔なじみになった若い店主が

いつもの笑顔で迎えてくれた。

「また冬に逆戻りだよ」

「三寒四温ですね」

長い沈黙の時間を過ごしていた反動だろうか、

それとも彼の炒れてくれた珈琲が凍り付いていた身体を

溶かしてくれたからだろうか、

他愛もない会話がこころに沁みる、

一杯の珈琲が時には幸せを運んでくれることを

感じながら客と店主の会話がぼそぼそと続いていた。

「これから東京へ戻られるのですか」

「そんなに思ってるほど遠くはないんだよ、だから

こうして何度も訪ねてしまうのかもしれないね」

もし彼の店が東京にあったら、こんなに足しげく通ったり

しないかもしれない、この北条仲町という廃れていく町で

彼が起した風にあたっていたいという願いに似た何かが

この店にはあることをどこかで感じ取っているのだろう。

「また寄らせてもらうよ」

表に出ると東の空に細い三日月。