日本の季節にかかわる言葉を集めたものを「歳時記」と
呼んでおりますが、それじゃその季節を表す言葉は
どれほどあるのかと調べてみましたら、二万を超す
ほどの言葉があるではないですか、
古事記、日本書紀から万葉集の時代に使われていた言葉が
今の世にまで通用していたり、
最近、若者が使い始めた年寄りには理解できない言葉まで
カウントするともしかしたら
膨大な言葉が出てくるかもしれませんね。
千四百年前の人々が使っていた言葉が、若い女学生の口から
もれ伝わってくるとなんだか幸せな気分になりませんか、
多分、千年以上の刻の流れに磨かれた言葉は、きっと其の言葉に
言霊が宿っているからかもしれませんですよ。
ところが歳時記に残されている言葉は、もうほとんどが俳句を
詠む方々の独占状態みたいになっているのはなんだか悔しい
じゃありませんか、もっと日々の生活のなかで美しい言葉が
それも若い人たちに使われるようになったら、殺伐としている
現代社会が少しはゆったりした気分になれるのではないですかね。
比較的季節を表す言葉が現代残されているのが正月、
元旦、年賀、初日、門松、松の内、鏡餅、書初め、なんていうのは
まだまだ使われておりますから説明するほどのことはありませんが、
どんと焼き、左義長、十日戎、あたりになると若いヒトはきっと
判らないかもしれませんね、さらに ひめはじめ なんていうと
もう大人だけがニヤリとしたりして、言葉とは使い方ひとつで
妄想まで引き出させることが出来たりするのですから、
日本の言葉は奥が深くもっと使い続けて欲しいものですよ。
しかし、言葉というのは一度口から発せられると、元へ戻せないという
性質のものなんですね、
時には、その言葉が相手を傷つけたり、中には鋭利な刃物みたいなものに
なってしまい、刃傷沙汰に発展するなんてことも起こるのです。
日本人が永い時間をかけて磨き続けてきた言葉には、なるべく相手を
傷つけない言い回しというものが貼り付けられているのですよ。
どうしたら相手にこちらの真意を伝えられるかを考えると、
相手を慮(おもんぱか)る心を持って接するということになるのでして、
それには、自分を一段低く見せながらあなたをこれほど大切にしていることを
伝える手段として使うのです。
たとえば贈り物ひとつにしても、その人が喜ぶモノを吟味していても
「つまらないものですが」
と言い添えるなどというのは、そのことを表す表現なんですが、
外国人には全く理解されないことかもしれませんね。
争いを避けるために考え出したこの方法は、相手を頭から信用していることの
表現でもあるわけで、其のことが身についているお年寄りは相手を疑うことは
しないものなのです、その美しい習慣を逆手にとって
オレオレ詐欺が横行していることには情けなくなりますよ、
ましてや、疑いもせずに相手を信用するヒトが非難されるなんてことは
日本人が日本人であることを放棄することではないですかね。
底冷えのする寒の内、空っ風に吹かれながら訪ねたのは昔の文化を大切に残し
続ける町、どうやら松飾を外すのは小正月でしょうか、もう浅草のような正月気分
はありませんですね、
町歩きもさすがに身体が凍りつきましてね、鬼姫様にすがり付いて
「あの、冬の土用なので、鰻でも・・・」
「あら、冬にも土用があるのですか」
「はい、土用は立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ十八日前からなんです」
やっと納得いただいて
で、いつもの馴染みのお店で大好物の鰻重を貪れば、冬の寒さもなんのその、
これで元気がいただけるなら、鰻さまさまでございます。
随分、季節の言葉を使うことができましたようで、
「ごちそうさま」
武州川越にて
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